今回は、前半に末広町会の岡山さんに江戸から明治にかけて、また第二次世界大戦前後から近代における秋葉原のお話を伺います。
後半は同じく末広町会の中島さんに、幼少の頃から親しまれたこの地域を、俯瞰した視点からお話を伺います。
関東大地震、そして東京大空襲
東京駅周辺は昔、三菱ヶ原と呼ばれていました。江戸幕府が倒れてから誰もいなくなって、みんな国元に帰っちゃったわけですよね。雑草もぼうぼうで。うちのじいさんは芝の生まれで、子供の頃にその辺にお使いに来ていて、夕方の帰りはたぬきが出て怖かったって言うんですよ。「こんなところお金を出して買う人がいるんだ」ってびっくりしたらしいです。(笑)
―当時は都心部という感じではなかったんですね?
やっぱり栄えていたのは上野とか日本橋だよね。栄えている街と街の間に挟まれた何もない場所。今の東京駅や大手町からは想像できないけど。明治になると陸軍施設がずらーっと並ぶんですよ。お茶の水辺りから市ヶ谷の方までね。昔の地図を見ると「ここに病院があったのかとか」「ここは刑務所だったんだ」と歴史が見えます。古い話で言うと、関東大震災まではまだ江戸だった、江戸のまんまだったって話を聞きますね。震災以降ガラッと変わったと。
―関東大震災もそうですが、第二次世界大戦の空襲の影響もあったのでしょうか。
下町エリアは、地震に比べれば空襲の被害は少なかったですが、被害はもちろん甚大でした。空襲っていうと、みんな 3月10日を思い浮かべるんだろうけど、神田や秋葉原周辺は1月1日にやられたらしいんです。
―お正月に、そうでしたか...。
まずはお試しでやったのかもしれないね。みんな3月10日の話ばかりするけど、この辺はもう少し前だったんだよね。

相撲取りと寿司、そして市場と盛場
今も盆踊りとかにも関わってますけど、昔は土俵を作って相撲大会をやったり、どじょうすくいをやったりしていたらしいんですよ。
―岡山さんの時代にはもうなくなっていましたか?
小さい頃はあったんだと思うんですけど、僕の記憶にはないんですよね。きっと相撲取りと仲良くしてた人がいたんでしょうね。両国から呼んできて。
―この土地ならではのエピソードですね。
この土地ならではでいうと、青物市場があったことかな。毎日稼いでる人も大勢いたわけですよ。寿司屋も多かったんです。さっき稼いだ現金を握って寿司を食べる。そういう時代だったんでしょうね。寿司屋はやっちゃ場(青物市場)のあたりに多かったそうです。うなぎ屋とか天ぷら屋もあったけど、それは他の街とそんなに変わらないかな。
面白いのは、青物市場があって相当儲かっていた人もいたはずなのに、盛り場はできなかったんですよね。仕事終わるとみんな御徒町の方に遊びに行っちゃう。だから、新宿とか錦糸町みたいな雰囲気にはならなかったんだよね。
―新宿はまさしく闇市の名残はありますね。
僕が想像するにだけど、将軍様が江戸城から寛永寺へ向かう御成街道があるから、その途中に色っぽいお店があってはならぬ、ということだったのかもしれませんね。

流行と運動、激動の時代
―幼少の頃の思い出で印象に残っているものはありますか?
東京オリンピックが1964年で、大阪万博が 1970年。その頃までは一生懸命流行を追いかけていましたね。兄貴と姉貴がいたんで、上が見てたテレビとか、追っかけていた歌手とかね。そういうのに引っ張られていたんだろうと思います。
―安保闘争とか、学生運動が盛んだった時期でもありますよね。
背景はよくわからなかったけど、社会現象として見てましたね。湯島小学校に通ってて、安田講堂(東京大学)で立てこもりがあった時なんかは「今日は授業半分だから帰りなさい」なんてこともありました。このあたりはやっぱり東京大学の影響が大きかったんでしょうね。でも小学生だから全然わからなくて、ヘルメットと棒きれでゲバごっこみたいなことして遊んでました。

※東京大学の安田講堂
意外なところに残っている街の歴史
―歴史の痕跡って、普段何気なく見ているところにも残っていますよね。
私のところはもともと鉄屑を商売にしていた家ですから、駅に行くとまず上を見るんですよ。
―上ですか?
梁ですね。古い駅舎だとレールをそのまま梁に使っているんですよね。「梁がまっすぐなレールで出来ているところは古いな」とか。今度見てみてください、屋根あたり見るとありますから。鉄屑は1メートルで何キロって見るんです。例えば本線レールだったらば 1メートルを 100キロとか。今はそんな使い方しないですから、「ああ古い建物なんだな」「この時代のものかな」って、そういう見方をしてしまいますね。

町名で呼び合う時代が来るかもしれない
あそこに見える昌平小学校は、元々芳林小学校って言ったんですよ。それと淡路町小学校が合併したんです。近くに昌平橋があり、湯島聖堂もありますよね。孔子が生まれた中国の昌平という名前から来ていて、学問を広めた人物だから昌平小学校になったと聞いています。
今はインターネットもあるし、郵便番号も昔ほど重要じゃなくなってきてるじゃないですか。そうすると逆に町名が生きる時代が来るかもしれない。
―もともとあった町名に戻る可能性もありますよね。
その方がいいかもしれないね。土地の名前って、その土地の歴史そのものだから。行政の方って、どうしてもその土地で生まれ育った人ばかりじゃないしょう。土地に愛着がそんなにないのかもしれない。だから地元の人と感覚が違うところもある。せめて住んだことがある人が関わってくれるとまた違うのかなと思いますね。この前、千代田区と一緒にバリアフリーのハザードマップを作ったんです。ロータリークラブで我々も車椅子を押しながら東京駅まで歩いてみたんです。でもね、実際歩いてみると障害者に優しくない場所はまだまだ多いですよ。
―自分で体験してみないと分からないことってありますよね。
そうなんです。東京はバリアだらけですが、実際に歩いてみて気付く事はたくさんありますね。

変容する街と外からの目
―近年の秋葉原はどのように見えていますか?
メイドカフェが出てきた2000年頃から街は変わってきたよね。最近そういうお店だけでなく、ちょっと風俗関係のお店も増えてきて。私から見れば電気街だった頃とは雰囲気がだいぶ変わってきた印象がある。
―インターネットの普及も大きかったのかもしれませんね。
そうかもしれないね。でもね、海外から来る人たちを見ていると驚くことがあるんですよ。フランス人の高校生が留学に来た時案内したことがあるんですが、初めて日本に来たのに本当に詳しい。私は全然わからないんだけど、フィギュアを見てすごく楽しそうで。
日本に来たいって思われる海外の方は、自分たちが思っている以上にすごく調べて来るんだなと思いました。

それぞれ違う視点から捉えた街の話、街に住む目線と俯瞰した目線、どちらもこの街を良くするためには必要な、とても重要なお話を伺えました。